ようこそ ハーパーズ・ミルへ


ハーパーズ・ミルはカレーと珈琲の店ですが、 その敷地内にレコーディングスタジオギャラリーを持つ、自己表現の場であります。
コンサート・展覧会の企画自主制作レーベルとして アルバムをリリースしています。


やぁ ハーパーズ・ミルへようこそ
おいら坂田ひさし よろしく!!
甲府でカレー屋を初めて12年目、カレー屋を初める前はフォークシンガーを目指していたんだけど、好きな女ができて彼女と暮らしたいと思ったんだ。だけどフリーアルバイターっていう言葉のない時代からアルバイトで稼いでいたんだけど、まあ、それじゃ彼女の両親も許してくれるはずもないので、お店を初めるという条件で結婚を認めてもらったのさ。結婚式を山梨でしてそれから東京へ行った。どうせじゃ東京でいろんな店を見て、勉強しようと思ったからね。たまたま吉祥寺の街をぶらぶらしていると、アルバイト募集のはり紙が目にはいった、それがカレーと珈琲の店「まめ蔵」との出会い。おいら女房と二人、店のマスターに会って訳を話たんだ、店を開きたいから雇ってくれないかって、それから「まめ蔵」で働くことになった。マスターの南さんはその時、版画やイラストの勉強をしていて、カレー屋をしながら自分のやりたいことをやっていたのさ。おいら唄うこととか結婚したらもう出来ないかなと、思い込んでいたので、ちょっと驚きだった。そうかこんなやり方もあるのかって、なにもプロになることが全てじゃ無いし、お店をやりながらでも続けていくことのほうが、素敵だなと思った。「まめ蔵」にはそんな南さんを慕って、若いアーティスト達がよく来ていた、彼らとはすぐに仲良くなれたよ、一応おいらも、うた唄いだからね。表現方法は違っても、何かクリエートしたいという思いで、話が合ったからね。それから「まめ蔵」でライブもしたんだ、その時はゲストで友部正人さんを呼んでね、おいらもう友部さんとは友達だったので、南さんにも会わせたかったし、みんなに自分の唄を聞いてもらいたかったから、ちょうどいい機会だった。そんなふうにして3年位東京で暮らした。
 漠然とお店を開きたいと思っていたけど、「まめ蔵」で働いて、自分でお店をやるならこんな店がいいなと決めて、山梨に帰ってきたのさ。おいらコックになりたい訳じゃない、でも、料理も自己表現のひとつなんだと思う。だからハーパーズ・ミルじゃカレーをだしているけど、売っているのは自分の感覚なんだと思っている。自分が食べて美味しいもの、椅子に座った時の感じ、流れる時間と音楽すべて、おいらのここちよさが基準になっている。そのころ世の中じゃカフェバーブームと、言うか、ハイセンスな店が流行っていたけど、おいら、はりぼてのように感じていたから、シンプルでも飽きないようなものにしたいと思い、無垢の木をたくさん使って、それが何年もしたらすこしずつ摩り減っていって、味がでてくるみたいな店にしたいと思った。世の中に、何人、自分のここちよさを解かってくれる人がいるか解からなかったけど、すぐに壊れてしまうものとか、変わってしまうものって、余り好きになれないのでなるべく、店を作ったら変えないでいようと思った。
 それでも1985年1月にオープンしてから、たいした宣伝もしないのにお客が結構来てくれて、1年ぐらいはあっという間だった気がする。それで、一周年のお祝いに友部さんを呼んでコンサートをハーパーズ・ミルでしたんだ。そのとき考えついたタイトルがハーモニック・ハートだった。それから毎年1月に友部さんは唄いに来てくれるようになって、11年間続いている。20年以上友部さんは日本全国をツアーをしているけど11年も欠かさず行っているところは他に無いって言ってくれてこれはもう行けるとこまで行くしかないかなと思っている。ハーモニック・ハートは唄をじっくり聞かせるコンサートで、現在vol.38まで続いています。友部さんのほかにスターリンの遠藤ミチロウさんやたまの知久寿焼君、音楽ライターで自分でも唄っている下村誠さんなんかが来てくれるようになったんだ。おいらも必ず唄うことにしている。
 2年目位からおもしろい人達が集まり初めた、類は友を呼ぶ、と言うけどおいらの指向性に合う人って居るんだな、やっぱり何かクリエートしている人が多くて、その中でも 山本佳人さんとの出合には学ぶことも多く、その出会いには感謝している。山本佳人さんはUFOやオーラとかの宇宙哲学の研究をし、自分の体験をベースにした本を8冊位出している人で、よくカウンターに座り2・3時間話をするんだ。おいらも20代の頃、ジャック ケルアックの「路上」などのビートジェネレーション、ビート以降のヒッピー達の生き方、自然回帰、東洋思想に影響を受けてバグワンやグルジェフ、カルロス カスタネダなどの本を読んでいたから,精神世界のことはみじかに感じていたし興味もあるんだ。だって人は何のために生まれてきたのか、とか、自分とは何なのか、誰だってふっとした瞬間に想うものじゃないかな。いまだにおいら答えなんか見いだせないけど、おいらの唄のテーマでもあって、よく佳人さんとそんなことを話すんだ。ハーパーズ・ミルのカウンターとはそんな場所なんだ。
 カレー屋も4・5年やり続けると、やっぱりマンネリというか少し飽きてきたりする。誰でも決まりきった日常に窒息しそうになるもんだよね、だから日常から抜け出す行為がどうしても必要なんだと思う。おいらもやっぱりそうなんだ、好きで初めたことで、仕事に不満もそんなに有る訳じゃないけど、これでいいのかって思う。何かやり残していることがあるような気がして考えていたら、とつぜんCDでも出してやろうかって無謀にもひらめいちゃって、それから仕事が終わって子供と女房が眠ったあと、一人で店に下りてギターや唄の練習を初めたんだ。20代の初め頃作った唄とかこのまま埋もれさせてしまうのも悲しいなと、あれだけ自分なりに賭けてやってきたことの証が何ひとつ無いんだから、ちゃんと形にしておかなきゃって思ったんだ。それと子供達が大きくなったとき、とうさんは何していたのと聞かれたときに、こんなふうに考え、こんなことをやってきたって見せてあげたいなとも思った。まぁ、記念アルバムで1枚だけわがまま言って作らせてもらおうと思った。だけど、CDにして人に聞いてもらう以上、ふつうのCD屋で売ってるCDと同じ位のクオリティーじゃないとつまらないなと、友達に相談したらそいつの従兄弟がアレンジの仕事をしてると言うんだ。それが廣瀬嘉英君との出会いで、廣瀬君はおいらの唄を5曲アレンジしてくれて、エンジニアの仕事まで引受てくれた。毎週水曜日の店の定休日に東京から来て、おいらのギターや唄の録音を手伝ってくれた。おいらそれまで録音の進め方なんて知らなかったけど、少しづつ教わりながら録音機材なんかも揃えていった。真夜中のハーパーズ・ミルの店内は録音スタジオに様変わり、だからハーモニック・ハートスタジオって言うのは夜中のハーパーズ・ミルのことなんだ。それで、出来あがったCD 「オンザロードを遠くはなれて」はおいらの想像以上の出来で、トラックダウンが済んで全部通して聞いたとき、涙があふれてとまらなかったよ。ジャケットは南さんにお願いして、ライナーノートは友部さんに書いてもらった。その文章を読んでまた泣いてしまうおいらセンチメンタルではあるが、宝物ができたんだ。ハーモニック・ハートのコンサートに毎回来てくれる馬場憲一君が、自分のことのように喜んでくれて、CDの販売を手伝ってくれたことも嬉しかったな。廣瀬君を紹介してくれた橋本和彦君にCDが出る前に「おまえ、勇気があるな」って言われたんだ、たしかになに言われるか判らないし実際自分に出来るのかとも思ったけど、録音を始めたら面白くって、なんでこんなに面白いことをいままでやらなかったんだろうと思った。かなりシビアでしんどいことだけど、そのときその瞬間自分の能力の限界までやらなっきゃならないけど、そのことが自分を一番成長させてくれるし、その経験が楽しいんじゃないかな。適当なところでお茶を濁しているようなやり方じゃなく、本気ではまったら「けっこういいっすよ」の世界だよね。この経験が後のスタジオぶどう畑へと繋がっていくわけだけど、2枚目のCDの話を少し。
「オンザロードを遠くはなれて」を出してから、友部さんのエッセイ集の出版記念のパーティーで、下村誠さんと知り合いハーパーズ・ミルに唄いに来てくれることになった、下村さんは音楽ライターで、自分のレーベルNATTY RECORDSで何枚かCDを出していて、新作のCD下村誠withスナフキンの「ホーリーバーバリアン」を聞いてすっかり気に入ってしまったおいらは、そのことを下村さんに話した。それで2枚目のアルバムのプロデュースをお願いしたんだ。その経緯はライナーノートで下村さんが書いてくれたのでそちらを見てください。レコーディングはどこでしようかって話になって、おいら自分のスタジオの構想があったので、他のスタジオを使ってみたいと思い幾つかのスタジオを見てあるいたんだ。その中の、小淵沢にある星と虹レコーディングスタジオが気に入った。そこは歯医者さんの2階で、ロフトになっている部分がスタジオになっていてすごくリラックスした感じで、そこの先生も歯医者をしながら好きな音楽をしている、おいらの感覚に近いものを感じたからそこに決めた。そこでのバックのミュージシャンと寝泊まりしながらレコーディングすることはとても楽しい時間で、延べ11日間かけて「青の地平線」は出来上がった。CD はそんなアットホームであったかいアルバムになったと思う。
 まさか自分がCDを出せるとも思っていなかったのに、やろうと決めたら出来ちゃってそれも2枚も、それで聞いてくれた何人かの人に、次はいつとか言われると嬉しいものです。それと「青の地平線」の3曲目に入っている#君の肩越しに拡がる世界をみつめているを聞いてストーリーが沸いてきたと言って、小説家の水野真里さんが恋愛小説なんだけど書いてくれて、その中においらの唄を2曲とタイトルまで使ってくれて、こんな広がりかたなんて想像もしていなかったのでなにがあるか判らないものだなって思っています。その本はソニーマガジンズから出版されています。
 まぁこんな訳でハーパーズ・ミルと言うかおいらは増殖していて、楽しいことは一人で楽しむよりみんなで分かち合いたいと思っている。だからスタジオもオープンにしてみんなが使えるように新しく建てたんだ。そこにはホールもあってライブやギャラリーに使えるようにした。互いに刺激し合えるようなそんなコミュニケーションの場になったらいいなと思っている。甲府はつまらないとよく耳にするけど、そんなこと言っていたって状況がよくなるわけじゃないし、待っていたってチャンスが訪れるわけじゃない。自分から動きだしてしまえば思わぬところから想像もしなかったことが起きるかも知れない。こんなもんさと判ったふりしないで、明日は何が起こるか誰も知らない訳だし、今本当にやりたいことをやり、自分に諦めなかったら、夢は実現できるんじゃないかな。そのためにおいらは生まれてきたと思っている。本当に長い間ここまで読んでくれてありがとう。近くに来る機会があったらハーパーズ・ミルに寄ってください。おいらいつもここにいます。  

1996.8.25 坂田ひさし


 
問い合せ ハーパーズ・ミルエ055-233-3157 坂田まで。


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